月の初めからこんなことを書くのはなんであるが、そもそもこの私はあまり育ちがよくないんじゃないかということは、みなさんご高承の通りである。やはりスラム街でケンカ三昧で生きてきたのが悪いのだろうか、だいたいがルールというものの存在の捕らえ方が人とは異なっているようである。私の中ではオフィシャルな言動の基盤が「ルール」であるのだが、ずいぶんと革新的?
そういう思想のもとに動いている私なので、不良社員の謗りを免れ得ない。入社式以来、スーツに社章を付けたことがなく、また驚くことに喪失してしまっている。まさにロストジェネレーション。ちなみにうちの会社では社章がないと警備員に呼びとめられたりする。だがそこは気合の表情を浮かべて、話しかけることを許さない。
このオーラで「**させない」というのは、昔からけっこう好きです。ノラネコ同士がケンカしながらふーふー鳴いているその間を、泰然と横切って行ったりすると面白いです。ただしその際にはオーラを出しておかないと、たぶん両方の猫から噛まれます。成功するとポカンとした顔で猫がこちらを見ていることになります(=100Pt)。
話を戻すと社員のネームプレートもつけたことないですね。レッテルを貼られるのが好きじゃないんですよねーなどと、上司に笑いながら話しておけばOKです。ただしその後に「過去の名声でしか生きていけないんじゃ、死んでるのも同じですよね」と付け加えると怒られるみたいです(←実証ズミ)。調子に乗って、「そもそもラベリング理論は」などと蘊蓄を傾けるとエライことになると思われます。
入社当初、ネクタイの嫌いな私は終業のベルとともにネクタイを外して働いていたのですが、これも注意は受けました。他にもマナー・儀礼・作法については、注意されまくりです。先日なんて上司から直接に妙なコピーの冊子を渡されてみてみれば、「営業社員の心得」などと銘打ってありました。私は営業社員じゃない。
会社の地下倉庫にコピー用紙を取りに行くたびに、なんだかパソコン関連の小物を手にして戻ってくるというのも問題点のひとつみたいです。でも地下には死んだパソコンの残骸が大量に放置されているんですよね。その脇には未使用LANケーブルなどの珠玉なる品もアリ。蓬莱の玉の枝を探すのもひと苦労なくらいです。
所有と使用の概念が未分化であるのでしょうか?それともラディカルなまでのリサイクル論者(ジャイアン的共産主義者)?どっちにしても大した事ないし、だいいち文章にすると上司の気苦労が知れるというものです。めげないで、上司さん。良い日もあれば、悪い日もあるさ。
最近の私の中での流行りごとに、博多弁があります。そもそものきっかけは会社の人で、博多出身の人がいたからなのですが、これが使ってみると楽しい。ぜひみなさんもお試しあれ。
ただし私のように、忙しくて死にそうなっている件の会社の先輩に対していきなり後から「よかと?よかと?」などと意味もなく、博多弁を発射してしまうと、怒られること間違いナシです。ちなみにこの人怒らないことで有名な人なのですが、はじめて怒られました。しかもはじめて見る怒ってる姿が面白くて、ついつい「うまか?うまか?」などと続けてしまいました。
危うし会社人生。辿りつけるか老後。
ただ試そうにも少なくとも関東周辺に在住している限りは、お手本となる博多弁使いが不足している事態は否めません。で、困って困って悩んで落ち込んだあげくに発見したのが、博多弁コンバータ。ホームページにて発見した逸品なのですが、これがよく出来てる。メッセージボックスに適当な文章を入れてボタンを押すと、博多弁にコンバートしてくれる。
で、実際に変換された状態がこぎゃん感じ。ね、けっこうよか感じになってませんか?余計なお世話やけどこうゆうコンバート市場は、100億円市場とも、はたまた単純にドル箱とも呼ばれており、第三世界諸国の参入が必至となっとるだけではなく、そん資金に関してヘッジファンドが裏で絡んでいるみたいです(ウソ)。
ほかにも王道たる大阪弁とか、広島弁とか色々あるようばい。津軽弁とかもあったかいな。ばってんくさ残念ながら、うちば作り上げた土と水ば有する横浜(当然に木と火と金?もある)にて主要に使われとる横浜弁は見つかりませんやったとよ。末尾に「やん」(注:原文「じゃん」)ばつける以外の横浜弁は知らんしな。
横浜弁の実態、およびそもそもの使用範囲ば研究されとる方がいらっしゃおったら、御一報くれんね。
潜在意識か顕在意識か、保守思想か革命思想に基づくものかはよく分かりませんが、社会人をやっていながら無性にアルバイトをしたい瞬間があります。責任がなくて云々という話ではありません。単純にあちこちの職場へと顔を出せて、いろんなことを見聞きできるということです。
生まれてはじめてやったアルバイトは、某製パン工場でバナナを運ぶ仕事でした。なんだか文章にしてしまうとひどく哀しい仕事のように聞こえるかもしれませんが、やたらとはしゃぎながらバナナを運んでいた記憶があります。別に変なクスリ(≠妙薬)を強制摂取させられていたわけではなく、ホントに楽しかったのでしょう。
一目で分かる工場の中で、上から下まで真っ白の衛生服を着込んで、バナナをダンボールで15箱くらい一気に運んでいる。もちろん台車を使ってですけど。10箱くらいで良いからって言われているのに、「いやいや出来ますから」と突っぱねた上での、自分という存在のギリギリの限界ラインを試している(←どこかボクサー的な何か)。
ああいう工場において、バナナはほとんど緑色をしているって知ってました?まあ、完熟のやつだったらすぐに痛んじゃうからダメなんでしょうけどね。私はなにかの書物で、なんかのガス(≠イベリットガス)を充満したところにバナナを置いてやると黄色く変色するということは聞いたことがありますが、ここではそんな事はしてませんでした。
バナナを煮てます。
煮込んではいませんが、明らかに熱湯の中に何十秒かは突っ込んでます。その結果カニさんよろしく、黄色く変色します。しかもバナナの皮が剥きやすい状態となります。あら便利。ただし私のように突っ込んだままちょっと忘れてしまうと、バナナ鍋みたいな妙なものが出来上がってしまいます。ちなみに香川県周辺ではバナナ汁といって、正月にいただく習慣があるようです(ウソ)。
10年くらい前に関東周辺において、丸ごとバナナを食したことのある方は、私が運んだバナナであった可能性があります。お買い上げありがとうございました。おかげさまで、当時ケンウッドのコンポを購入することが出来ました。ああ、バイトしたい。
実際に自分が社会人として働き出す前に、永らく疑問に思っていたことのひとつに「会社員って、いったい何やってんだ?」ということがありました。特に小学生だったりした時分には、学校も3時くらいまでしかないわけで。いったい全体あんなに長い時間なにをして遊んでるんだろう?と。出来うることであれば混ぜてはくれないだろうかと。
その想いは大学生になって就職活動をしている時にも続いてはいたのですが、働き始めて分かったのかと問われると、首を傾げざるを得ません。少なくとも自分の仕事は説明しようと思えば出来ないことはありませんが、会社のほかの人間がなにをして日々を過ごしているのかはまったくと言って良いほど分かりません。
私の仕事はきわめて内勤なので、パソコン処理にガンガン回した結果として、怪人ヒマヒマ(KH2)と呼ばれるまでにいたりました。どうもありがとうございます。しかし後先も考えずに人の仕事までパソコン処理に回した結果として、いまの職場を離れた後においてもご卒業できないこと確実とのお墨付きをいただいております。関西の方では烙印とも言うそうです。
世の中の会社員と呼ばれる人生をひた走っている人は相当数いるわけで、その人々がいったい何をしているのかはよく分からないものがあります。例えるのであれば、技術者ではない電力会社勤務の人(さらに言うのであれば、4大卒)。商品開発でもないだろうに、一体なにをしているんだろう?営業なんてありえるんでしょうか?
私は続にいう文系人間ですが、もし国土地理院とかに就職していたら、なにをしていたんでしょう?都心の抜け道を探していたんでしょうか?ショウワノートでジャポニカ学習帳を作る部署とかにまわされていたら、何をしていたのでしょうか?こてっちゃんを作っている会社の社員さんは、ほぼ皆さん営業社員なのでしょうか?でも、どこで誰に何を説明するのでしょう?
うーん?
金は世間のまわりモノ、わしは世間の鼻つまみモノといった秩序格言に表されているように、この世界はうまく成り立っているものです。現世界で殺生を生業としてしまうと、来世が危ぶまれるといったように、また資産が減れば資本も減るといったようにバランスは常に一定の形で反映しているのです。
で、今回はなんの結果何が生まれてきてしまったのかというと、戯れの結果圧倒的な仕事量に見舞われたみたいです。もともと体力のみならず、気力にも欠けている私にとって、仕事とは忌み嫌うべき北東の方角であったりします。そんな私が無理やり働いた結果として目にしたものは、
頭痛
眩暈(めまい)
視覚の乱れ
嘔吐感
などでした。特に視覚の乱れはたまに起きるのですが、目の前に広がる画像が瞬間的にウニョウニョと波打ってしまうという面白イベントです。初めて経験したときには、焦りまくりましたが今では受信上のトラブルによる一種の文字化けと自己判断しています。嘔吐感に関しては、カッコイイゲロの吐き方を既にマスターしているので、あまり気にしていません。
薬物依存の傾向がある私は、最近では信じられない量のCCレモンでカラダを維持しています。でも、もうそろそろユンケルが必要となるかもしれません。飲むだけじゃ飽き足りずに直接皮下注射や、ユンケル風呂なんていうものに手を染めてしまいそうです。自分で自分のことを抑えきれなさそうで怖いです。
人間誰しもこの言葉には弱いというものがあります。どうもこの文句が入っているだけで、心の琴線に必要以上に触りまくりというキーワード。言いまわし。単語。間違った路地に入りこんでいるのは百も千もメガヘルツ(?)なのですが、それでも止められないぞの破滅型人生。酒に溺れてちゃぶ台をひっくり返す。ただしひとり暮し。
私の弱点ともいえる言葉は、栄養成分表示のそれです。「成人が1日に必要としている食物繊維の80%を補える」だとか、「レモン50個分のビタミンC」などと聞くともうメロメロです。よろめき放題(90分時間制限)です。そんなに摂取して良いのかどうかなんて、関係ありません。ビタミン至上主義たる、メガビタミン主義者です。
うちの父親は消費税がキーワードみたいです。以前に消費税が導入された時や、その後の3%から5%にアップする時に狂ったほどの買い物を実行に移して、家族中の度肝を抜ききってしまいました。危うく三枚に開かれそうでした。散財とはこういうものを言うのか、豪遊とはこういうことを指すのかという社会勉強をさせてもらいました。でもこれ以上は止めてください、父上様。
ほかにも思い当たる単語としては、「バルク」「限定」「*割引」「元祖」などがあげられます。間違っても「ドルク」「無差別」「天引き」「教祖」などではありえないはずです。中にはそういう要素に引っかかる人もいるかもしれませんが、明らかに少数派です。「本場マダガスカルの」(≒マダガスカルリミックス)なんてのも同様の位置付けかもしれません。
人の名前ってやつはどうにも訓読みが多いみたいですね。さっきしばらくいろんな人の名前を考えてみたのですが、音読みの漢字が入る有名どころの名字では佐藤さんをはじめとする「藤」くらいしか思いつきませんでした。まあ事の成り立ちからして当然なのかもしれませんが、ちょっとばかしつまらないという気がして仕方ありません。
ただしここで単純に音読みにしてしまうと、小学生時代に先祖帰りです。ちなみに私の名前はメールアドレスからも明らかであるように「オオタケ」だったりするのですが、よく「ダイチク」などと言ってるヤツがいました。余計な話続きですが、そういう事を言ってる人間に大人物はいなかったみたいです。ひとつの指標になり得るでしょう。
そこで、私は敢えて「大和言葉」風の名字を推奨したい。これでカッコ良いと思われること必定。実物との乖離状況に関しては、関知するところではないながらも。で、その場合において私の名は
なんて感じでいかがでしょう。「大きい」と「あまた」は意味が異なりますが、そこはご愛嬌。ただ電話とかで名乗ってもまず間違いなく名前が誤解されることでしょうね。分かりやすいところで「竹山田」。竹山なんだか山田なんだか、はたまた竹田なんだか、「おいおいしっかりしてくれよ」と背中を叩きたくなる名前。
下手したら「山田タケ」さん(甲府出身の81歳)が、むりからに英語風に名乗っていると思われたりしないだろうか?うーん、不安だな。やっぱり名字はありのままで過ごすべきかもしれません。世の中うまく出来ていると同時に、難しいものです。
昔からよく思うのですが、人の好き嫌いなんてモノはなかなか説明しづらい部分が多いのではないでしょうか?食べ物くらいであれば、「かくかくしかじかの経験を連想させてしまうので嫌い」なんていうのは、分かりやすい論拠にはなり得ます。しかしその味覚に関するものも、甘い物好きなんて分野に進入すると、なんで人それぞれ異なってくるのかが難しいです。
辛い物好きは味蕾がおかしくなってるかもしれませんが、甘いものが苦手というのはなんでしょう?マチョイズムのなれの果てというだけでは、解き明かしきれない謎を秘めているように思います。簡単に「人間色々、これが個性だねー。わっはっはー」などと、ビールを片手に笑い飛ばせる問題ではないです。
味覚であればまだしも、これが色に関する好みなどになってくるとますます???です。私は青だの、茶色だのは好きですが、黄色とピンクとオレンジが苦手です。白と黒は良いけど、灰色はあまり。緑はその彩度によりけりです。もっとも碧とかは好きな傾向にあります。そういう意味では蒼なんて、最高。このあたりは説明できますけどね。
青とピンクの好みというのは、幼稚園時代に刷り込まれた「およそ男たるもの青のスモッグを着るもの。女子(おなご)はピンク」という短絡的・画一的・大量処理的な思考形態の残滓であるかと思います。学校教育の弊害かもしれませんし、幼児期の我々がかってに自分たちの置かれた環境から、誤解してしまった結果かもしれません。今となってはどっちでも、それほどの違いはありません。
人間の好みというものが完全に人知を超えた説明のつかないものだとは思えません。その人の持つ細胞一つ一つ、今までに積み上げてきた経験情報などを、総合的に勘案することで、その人物の好き嫌いが判明するのではないかと信じています。そしてそれが出来るようになった時に、全ての人間に普遍的に好まれる最高の価値があるかどうかも分かってしまうことになるでしょう。
怖くもあり、待ち遠しくもあります。
なぜそうなったのかは分からないのですが、私は極端に人と同じ事をするのが嫌いです。「23*13=」なんて算数の問題があったときにも、思わず23を13回足してやろうかと思うくらいに嫌いです。天邪鬼の作り方は知りませんが、天邪鬼ならここにいます。大丈夫、そう簡単に人間はいなくならない。
おそらく同じような関係からではないかと自分では推測しているのですが、たまーに自分の中でアドレナリンだか脳内モルヒネだかの類似商品が異常に放出される瞬間があります。この現象が起きると、私は無理をせずにはいられません。意味もなく自転車窃盗に及んでみたり、夜中の車道を猛然とダッシュしてタクシーに挑んでみたり、およそやっては行けないコトをしてしまいます。
ただその時に自我を失っているかというと、そんな事はありません。むしろ意識は冷静沈着にして、研ぎ澄まされています。ではなぜそんな危険なことをするのかというと、「自分はどこまで出来るのか」という限界値を知りたいからなのかもしれません。他にも烈しすぎる興味本位説、後でオモシロ話として使えるようにストックしておきたい説などもありますが、いずれも正です。たぶん。
私はどこまで行けるのでしょうか?今までに身体・生命の危険を感じたのは、「高校生に打ち上げ花火を水平打ちで打ちこまれ、怒って追っかけまわした事件」「これまた高校生が十数人ほど、向こうから角材を持ってやってきた事件」「旅行中のニューヨークにて、深夜の三時に地下鉄(ハーレム周辺)に乗りこんでみた事件」などがあります。
いずれもいま考えると恥ずかしい話ですが、たぶんもう一度同じ状況に置かれたのならば、まったく同じ事をしていると思います。どこまで綱を渡ることが出来るのか、どこに辿りつくのかは未知なる世界です。でも、アバンチュールな人生で、けっこう好きです。
一定程度の年齢を経た人であるなら、きっと共感いただけるのではないかと思いますが、人間齢を重ねるにつれ、その時間の流れが速くなっていくように感じられます。小学校在学時代には一生小学生を演じるのかと思いウンザリしましたが、大学の三年間はウンザリする間もなく過ぎ去ってしまいました。
おそらく自由度が増したがゆえに、自分の好きなことをやる時間が増えたから時間の流れが速くなったのだろうと思っていましたが、社会人になってもそのスピードはとどまるところを知りません。社会人になってはや二年が過ぎ去りましたが、この調子だと老衰で天寿を全うする日もそう遠くはなさそうです。
しかも現在の平均寿命は80歳前後ですが、なんとなく我々のような食生活がむちゃくちゃな世代は平均寿命も50歳くらいの気がしてなりません。生活リズムだって、学生時代の私は13時就寝19時起床なんて感じだったので、早死に間違いなしといったところです。ブックメイカーも嫌がること必定でしょう。
そこで思うのは、人間の寿命は下手に長すぎるからいけないんじゃないかということ。人生15年くらいであり、今現在とまったく同じ生活習慣を続けることが出来るのであれば、体感的には十分な人生を歩むことが出来るんじゃないかと思います。もっとも私の場合、人間としての面白みを感じることが出来始めたのが15歳くらいからですので、意味がないかもしれません。
前提の生活習慣だって、15歳が寿命だとしたら、5歳くらいから働いてもらわんと世の中うまく回らんのかもしれません。老獪なる12歳なんて、あまり見たくありません。脂の乗りきった9歳というのも同様。村の長老18歳なんて、頼りにならなさそうだしな。
世の中ではゴールデンウィークが始まったところも多いようだが、私の勤め先はしっかりと30日も出勤日となっている。月月火水木金金じゃないだけマシと喜ぶべきか、それとも労働者の権利を求めて運動を起こすべきか?キリシタンでもないのに安息日。
別に昭和天皇に対して特殊な思い入れがあるわけではないが、仏の誕生日たる潅仏会も、キリストの誕生日であるクリスマスも休みではないのに、みどりの日は休みなんだーというのは素直な疑問。やはり日本国は本来的に神道国家だからかとも思うが、さすがに天照大神の誕生日は知らん。
それはそれとして昨日また本を購入してきました。なんだか最近バタバタしていて本を読む時間がないという窮境に陥っているので、ここは良いチャンスとばかりに会社がえりに本屋に立ち寄ってみました。とりあえず毎月買っているパソコン関係の雑誌を一冊手に取り、次にここ最近買いそびれていた週刊アートギャラリーを2冊手にする。
週刊アートギャラリーに関しては、既に2冊ほど未読のものが家に置かれているのですが、いつか読むぞと勇ましく。そしてレジに向かう途中に平積みになっている村上春樹のスプートニクの恋人を発見。これも迷わず購入。少しは迷えよ。もうちょっとだけでも良いから考えろよ。
なわけで、今日は朝から読んでました。スプートニクの恋人。ほんでもって、夕方ころに読了しました。大丈夫、今回のはねじまき鳥やアンダーグラウンドみたいな莫大な文章にはなっていません。なかなか興味深く読むと同時に、相変わらずの喪失感を抱いて読み終わりました。
内容は興味を持たれた方がそれぞれに読んでもらえば良いのですが、今回の作品は今までの作品とはラストが違います。生意気に言うのなら、登場人物に名前をつけることが出来たのがひとつの成長であり、現実世界にコミットして行くのも成長、そして今回のようなラストを作り上げると言うのも成長のひとつなのでしょう。
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